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【書評】『フリードリヒ大王 啓蒙君主のペンと剣』

  • seikeigakubueuropa
  • 2022年9月29日
  • 読了時間: 7分

更新日:2022年10月8日



飯塚信雄著、中公新書、1993年10月15日


文責:番場理佐子(政経学部2年)



*興味のある地域・分野

プロイセンやイギリスに興味がある。また、プロイセンのホーエンツォレルン家やハプスブルク家に興味がある。今回は、ハプスブルク帝国のマリア・テレジアと同時代に生きたプロイセン王国のフリードリヒ2世について、その人柄や生涯を理解する第一歩として上記の本を選んだ。



●はじめに

本書は、國學院大學や明治大学で教鞭を取り、西洋文化史や服飾史、手工芸史、ロココ文化に造詣が深いドイツ文学者の著者による著作である。戦略の大家である一方で、文学や芸術を親しむ中で自らも詩作やフルートの演奏を好み、大王と尊称されるまでに至ったフルードリヒ2世の人間性を描いた一冊である。


●本書の概要 


はしがき

1 初めてのプロイセン王

2 軍人王フリードリヒ・ヴィルヘルム

3 応対しフリードリヒ

4 逃亡

5 ラインスベルク宮の雅宴

6 夢想するアンティ・マキャヴェリスト

7 シュレージエンの征服

8 サンスーシ宮の建設

9 貴婦人たちとの戦い、七年戦争始まる

10 姉ヴィルヘルミーネの『回想録』

11 文人フリードリヒ

12 素顔のフリードリヒ

13 孤独な晩年

14 寛容はどこへ行ったのか


 はしがきでは、現代におけるフリードリヒの誤解についての説明がある。フリードリヒ大王は名君として多くの伝説がつくられた一方で、ヒトラーが大王の墓に参拝したこともあり、戦後は悪役として見られることも多かった。しかし、20世紀後半に新たな資料が発見され、それらの資料を基に実際の人間像に迫る研究や伝記が発表された。本書において著者は、フリードリヒ2世の人物像について伝説の中の彼よりも、素顔の彼は魅力的だと紹介する。


 1章では、初代プロイセン王フリードリヒ1世の生涯とプロイセン公国の成り立ちについて説明している。神聖ローマ帝国の皇帝選挙権を持つブランデンブルク選帝侯の彼は、オーストリアとの王冠条約により、選挙においてハプスブルク家への投票を条件にプロイセン公国の王となることを承認される。


 2章では、息子の軍人王フリードリヒ・ヴィルヘルムの政策や人柄について展開される。

フランス嫌いの倹約家で、民衆には嫌われていた一方で、宗教的寛容を持ち、積極的な亡命者の受け入れによりプロイセンの人口を増やし、特に軍人や学者、優れた技術者らの移住によって国力を増大させた。


 3章では、軍人王の息子フリードリヒ大王の悲惨な幼少期が描写される。姉のヴィルヘルミーネとともに、父親からは当時からしても虐待ととれる暴力を振るわれる日々を過ごし、趣味のフルート演奏や読書も禁じられていた。


 4章では、父による支配的な生活に耐えかねた王太子時代の大王がイギリスへの逃亡を図ったものの失敗に終わったことが述べられている。ここでは、当時の国際関係において敵国の王位継承者の亡命を受け入れる思惑が絡んでいたことや、逃亡に加担した王太子の側近が大王の目の前で処刑されたことがつづられている。筆者は、この逃亡劇は19世紀には美談とされていたが、実際は王太子の不用意な計画による喜劇だと評価している。


 5、6、7章では、ラインスベルク宮での王太子の結婚生活や、哲学、政治への関心について展開される。フリードリヒ2世は戴冠後、父親が長身の兵士で構成した巨人兵を廃止した。そして、マキャヴェリの『君主論』を批判する『アンティ・マキャヴェリ』をはじめ多くの著作を残した。宗教寛容を重んじ、父とは反対に友人たちと詩や哲学に興じた点で親子関係の悪さがうかがえる。

 本書で筆者は、フリードリヒが『アンティ・マキャヴェリ』では防衛戦争を肯定したにもかかわらず、後にオーストリア継承戦争においてシュレージエンへ侵入したことについて、ロココ人の二重的な人格だと述べる。また、この戦争でシュレージエンを獲得した程度で当時の民衆がフリードリヒを大王と呼んだことについても難色を示している。


 8章では、ロココ建築のサンスーシ宮における大王とヴォルテールら友人との生活が描写されている。宮には妻を一度も入れたことはなく、母と姉以外の女性は、女官など必要最低限しか入れなかった。大王は友人らと詩に興じ、『サンスーシの哲学者の著者集』を友人たち向けに刊行したが、自身に才能がないことは自覚していたため公刊はしなかった。


 9、10章では、シュレージエン戦争の最中にサンスーシ宮を建設するなど女性を見下した態度をとったことについて語られる。七年戦争においてはオーストリア、ロシア、フランスの女帝や侯爵夫人を怒らせ、孤立したことで、一度自殺を考えるまで追い詰められたことがつづられている。

 また、フリードリヒは、戦時中に最愛の姉や母、側近や頼りの将軍を亡くし、人生を悲観する旨を友人への手紙で綴っている。姉は、精神的にも政治活動の面においても大王の支えであった。


 11、12章では文人としての大王をより詳しく描いている。当時の教養人には、フランス語が必須であり、フリードリヒも多くの著作にフランス語を好んで用いた。これは現代でいうところの英語と同様と考える。それらの作品の一つである『アンティ・マキャヴェリ』によって、文人として名をあげ、戦時中には、国内向けの新聞にあえて敗戦についても載せることで民衆の信用を獲得し、ペンと剣の両方の使い手であることを同時に国内外に知らしめるなど、フリードリヒ特有の政策が紹介されている。生活面では、同じ服や破けた服を着回すなど倹約家の面を見せるが、当時の富の象徴の一つといえる嗅ぎ煙草入れに多額の出費をしていた。


 13章では高齢となった大王と国の規模について述べている。大王が死去した時、先代と比較して領土は倍近くにまで広がり、人口は倍増し、その半数が軍務に就いていた。


 14章では、大王の死後、新王の指導者であった大臣が、大王の寛容政策を踏みにじる非寛容の宗教勅令を発し、また大王の著作を公刊する際に原稿を勝手に削除、加筆し、訂正版や海賊版が流通したことについて著者は嘆いている。

著者は、フリードリヒを天才的な戦略家と評しながらも、七年戦争がマリア・テレジアの政治裁量を見くびり周辺国の利害関係を読み違えたことから始まったことを挙げ、全てにおいて完璧な戦略家であったわけではなく、博打ともいえる戦争を続行した冒険家とも評した。



●批評

 この著作では、フリードリヒ2世の功績として有名なオーストリア継承戦争や七年戦争にのみ焦点を当てるのではなく、西洋文化史の視点から大王の生涯を描いている。彼の幼少期、青年期の親子関係から語ることで、戴冠後の政策やサンスーシ宮での友人との生活、執筆活動における父親への反抗心がうかがえる。


 文学者である著者による本作では、戦時中かどうかに関わりなく、大王や敵国の王、女帝の手紙から、彼らの心境、行動の意図を図る描写が目立つ。また衣服、食に焦点を当て、彼らの人柄が描かれている。


 また、この著作において、フリードリヒ大王が伝説以上に魅力的であるとの著者の主張が繰り返されている。「1986年の前後には多くの新しい資料に基づいて、真実を公平に描こうとする伝記や研究が数多く出版された」(ⅱ頁)とあるが、1993年に発行されたこの著作も同様のものと考える。


 13章では水車小屋事件について述べられている。これは、裁判の判決において水車小屋を競売にかけられることになった人物が大王に救いを求め、これに応えるべく、そして正義と平等を民衆に示すべく大王が裁判官らを解雇したという事件である。「乞食でも人間として法の前では王と同等である」(184頁)と大王は新聞に寄稿したことについて、著者は明言していないものの、正義と平等を謳いながらも、大王という権力を行使し、司法の独立性を無視したことの示唆が話題を提示した目的の一つと考える。


 では、本書を読んで気になった点についてもいくつか記しておきたい。13章において、戦後は民政に専念する大王を「「国民の第一下僕」という「デア・アルテ・フリッツ」の伝説が生まれる」(180頁)とあるが、住宅の再建のために兵士6万を解雇し、建築や農業に従事させたとの説明がある程度で、あまり下僕としての行動が少し不足していると感じる。

大王のフルートの腕前については、褒めたたえる友人らの証言が述べられていたが、世辞であることを示す資料もあるのではないかと考える。



●おわりに

 プロイセンを軍事国家として大きく躍進させたことで悪人とも評されるフリードリヒ2世であるが、本書は、人生の多くの時間を芸術や友人との会話、作品づくりに費やした文化人としての魅力が伝わる作品である。

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