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『魔女狩りのヨーロッパ史』

  • seikeigakubueuropa
  • 2024年10月17日
  • 読了時間: 10分

書評:池上俊一『魔女狩りのヨーロッパ史』岩波新書、2024年.

文責:小林瑠斗(政経学部2年)

 

🟢はじめに

 本書は日本の歴史学者であり、東京大学名誉教授である著者による著作である。西洋中世史、ルネサンス史、特にトスカーナ地方の歴史が専門であるが魔女についての著作が多い。ロマネスク期に成立したヨーロッパの心的世界が、いかにして様相の異なるものへと転身したのかという疑問を解きたいという思いから、その起源や広がり、迫害の実態などを総合的に描いた1冊である。

 

🟢本書の概要


はじめに

第1章     魔女の定義と時間的・空間的広がり

第2章     告発・裁判・処刑のプロセス

第3章     ヴォージュ山地のある村で

第4章     魔女を作り上げた人々

第5章     サバトとは何か

第6章     女ならざる“魔女“ ― 魔女とジェンダー

第7章     「狂乱」はなぜ生じたのか ― 魔女狩りの原因と背景

第8章     魔女狩りの終焉

おわりに ― 魔女狩りの根源

 

 第1章では、魔女の特質と具体的な広がりを見る前に、一通りの全体像を掴むため「魔女」を定義つけしていく。まず、ここでの魔女とは「魔女狩り」の対象となった人のことであると定義される。そして、「魔女狩り」の対象となった魔女は悪魔と契約を結び、キリスト教の神を拒否して悪魔に忠順を誓い臣従する替わりに、授かった妖力を駆使して人間や動物・植物に害悪を及ぼす「害悪魔術」を操る者である。この悪魔との契約というのは「サバト」と呼ばれる集会に参加し、生涯にわたり悪魔に仕える遵守の証として十字架に唾し踏みにじって、キリスト教放棄の象徴とすることである。その後、悪魔による再洗礼を受けて新たな洗礼名をもらう。そして、悪魔に臣従礼を捧げるべく尻に接吻をすると、悪魔がその忠誠の証として魔女となった者の身体のどこか隠れた部分に刻印をし、悪行のための粉末、空中飛行のための膏薬を与えた。

 第2章では、今まで普通に暮らしてきた人がどのように魔女に仕立て上げられ、裁判に掛けられて処刑されるのか、その過程をたどる。中世ヨーロッパの裁判所は世俗裁判所と教会裁判所に大きく二分される。異端裁判の延長上に魔女裁判があったため、もともと魔女を裁くのは教会裁判所の管轄であった。しかし、教会は血を流せないために処刑については世俗裁判所に引き渡した。教会裁判所は罰金、名誉刑、拘置、鞭打ち刑から死刑までを宣告し、刑の執行は世俗裁判所が行った。

 そもそも、魔女が仕立て上げられる最初のきっかけは「噂」である。隣人に対する陰口や井戸端での女性どうしの噂話が夫や親族に伝わって増幅し、中心広場などで語られるようになると名指された人物の悪辣さの標になる。12世紀以降のヨーロッパ裁判において、噂は重要な扱いを受け、証拠として採用された。そのため、噂の内容が害悪魔術をめぐるものだった場合には、悪魔との契約などについて調査が始まり、告訴状に有罪の根拠として記され、魔女裁判が開始する。審問では主に拷問により自白を促し、その自白こそ合理的な証拠とした。魔女の処刑は多くの場合、劇場化・儀礼化され処刑場にて、裁判所書記が最終判決文=死刑判決を朗読し火刑などの刑が執行される。

 第3章では、1602年にヴォージュ山地の一部を構成する南ロレーヌのブルオモン村で起きた魔女騒動を例として取り上げ、農民一家がほとんど一人残らず魔女に仕立て上げられていく様子を見ていく。事の始まりは、老ロラ・ピヴェールとニコラ・ドマンジュの喧嘩沙汰以来の恨みつらみである。ロラの下女コレットが牛を放牧しているときに牛がニコラの燕麦畑に入り込み、ニコラは牛を外に出せと命じたが、近くにいたロラはそのまま放牧して良いと叫んだ。再びニコラが禁じたが、ロラがニコラを嘘つきとなじり彼の悪行を数えたて非難し始めた。ある時、老ロラの長男ジョルジュの弟ドマンジュとその妻マリオンの娘マンジェットに、下女のコレットがサバトと祖母ジャンノンの悪行を吹き込んだ。在地裁判官はこの話からコレットを尋問し事件の概要を掴み、コレットは虚構を膨らませ以下のように証言した。コレットはある日、マンジェットの祖母ジャンノンにサバトに連れて行かれ、その後も何度か赴いたという。その場には老ロラ夫妻、その息子のジョルジュ夫妻、同じくドマンジュ夫妻、同じくジャン夫妻、老ロラ夫妻の孫マンジェットとジョルジェルが確実にいたと証言した。コレットは魔女として処刑されるが、彼女は死ぬまでピヴェール家の面々を告発しつづけ、それが有罪に繋がる有力な根拠となり一家全滅という結果をもたらした。

 第4章では、そもそも魔女を作ったのが誰なのかがテーマである。魔女の現実存在にお墨付きを与えた者たちがいなければ魔女迫害も起きなかったであろうという点から、神学者や悪魔学者、その教えを広め魔女狩りを煽った者たちの著作を見ていく。1つ目は、ヤーコプ・シュプレンガーとハインリヒ・クラーマーによる『魔女への鉄槌』である。この書は、たえず裁判官の参照する基本文献、異端審問官にとっての聖書となった。この書は3部から成り、第1部では悪魔と魔女による妖術の数々を解説し、第2部では魔女による具体的な妖術のやり方とその対抗策を論じている。第3部では、魔女裁判の訴訟手続きをはじめて体系化し、噂や証言の取り扱い、拷問の科し方や自白させるための技術を説明している。

 2つ目は、ジャン・ボダンの『妖術師の悪魔狂』である。この書では、まず妖術師を定義し、ついで、霊および人間との関係、妖術の方法と妖術から身を守る手段、裁判での魔女の見分け方、妖術犯罪の証拠、自発的・強制的自白と刑罰などを論じている。悪魔やサバトの現実性について一見合理的な議論をしているのが特徴である。

 3つ目は、ニコラ・レミの『悪魔崇拝』である。彼は裁判官であった経験を活かし、自分の関わった裁判の被告の自白について解説し、魔女が人を毒殺する方法、悪魔との契約、サバトで行われる宴会について記した。以上のように主要な悪魔学者とその著作を紹介したが、彼らの推論・論理はきわめて構造化されており、矛盾に見えるようなものにもすべてに合理的な答えが準備されている。 

 第5章では、サバトとは一体何なのかが中心テーマである。魔女狩りが本格化し始め、サバトに出席していることがすなわち魔女の証拠と見なされるほど魔女とサバトは密接に結びつく。サバトの存在は魔女が孤立したプレーヤーでなく、集団的存在だということを示す。では、サバトとは一体なんなのかをこの章では見ていく。サバトという概念は、いつどこで、いかにしてその概念が誕生したのか。それは1420年代末から1440年代はじめに、スイス西方の山地で結晶化したことが分かっている。最初期のサバトのイメージを示すものとして、いくつかの史料が存在する。①スイスのヴァレー州アニヴィエ渓谷とエランス渓谷で700人以上の男女が「学校」に集まり、悪霊に出会い契約を結び害悪魔術を教わった。②秘密集会で新生児の人肉食、その遺体を使用し膏薬や粉末作り、動物への変身など。③悪魔への誓約、毒薬作りとその効能について。以上のように、様々な情報が存在し、そこからサバトでは魔女どうしの集まり、悪魔への忠誠を誓う場、魔術の伝授などを行っていたことが分かる。

 第6章では、「魔女」はどのヨーロッパ言語でも女性を表すが、実際には男性が魔女として上がるケースも地域によって存在した。では、第6章では、女性の魔女と男性の魔女との違いによって、その性格や扱いに違いはあるのか、どんな状況や条件なのかを考える。男性の魔女とは、男たちが村の呪術使いとなり様々な呪術や病気治療を行うことがあったため、そこから魔女に結びついたものだと考えられる。実際、他の地域で魔女とされた男性は、日々動物に接し呪術にも詳しい羊飼いや粉挽き業者、民間療法師放浪者などのマルジノー(境界人)であった。一般の善き住民とマルジノーを峻別するための社会的規律化が、彼らを魔女と呼ぶことにつながったのであろう。

 第7章では、魔女狩りがなぜ起きたのか、その原因を探るため当時の政治や文化、社会について考えていく。ヨーロッパで魔女狩りが全般的に蔓延した1560〜1630年は「小氷期」と呼ばれる寒冷多湿の夏、長期にわたる厳しい冬が何年も続いた。また、14世紀半ばにヨーロッパじゅうを襲ったペストやマラリア熱などの疫病の流行があり、そして近世に入るとドイツ農民戦争、フランス宗教戦争、三十年戦争、ブロンドの乱などの戦争があった。これらの気候不順や疫病、戦争などにより、人々に不安心理が広がる状況が続き、魔女迫害を起こすきっかけとなってしまった。そして、そこから魔女狩りが流行してしまったのだと考えられる。

 第8章では、魔女狩りが終焉を迎えた理由を考えていく。魔女狩りが衰退していく以前から、魔女狩りを理不尽な蛮行だと批判する人は少なからず存在した。ブラバント地方のユーリヒ=クレーフェ=ベルク公の侍医であるヨハン・ヴァイヤーは、『悪魔の幻惑について』で悪魔と契約し魔女になる現象を、メランコリーに冒された想像力の病だとした。そのため、これらの無実の人を拷問に掛けるのではなく、処刑するでもなく、薬草などで治療すべきだと魔女裁判批判を行った。

 ついで、イングランド議会の議員であったレジナルド・スコットは、自分の関わった魔女迫害事件にショックを受け、1584年に『妖術の暴露』を出版した。そこで、魔女というのはメランコリー症の哀れな老婆であり、その妖術や超自然的現象は聖書に根拠はなく、悪魔が詐術により心を惑乱させ幻影を見せているだけだと主張した。17世紀に入ると、魔女狩りに対する反対意見の輪はより大きくなり、魔女とされた者の大部分は医学的な治療が必要な病人であるとする論者が増えた。しかし、当時のヨーロッパでは魔女の存在を信じ、魔女狩りを擁護する論調と世論が主流であったため、魔女裁判や拷問を糾弾する論者たちでさえ害悪魔術の存在を認めるしか無かった。ところが、同じ17世紀中に悪魔憑き事件が数多く発生し、そのほとんどが捏造であることが発覚した。そのため、17世紀の終わりまでに悪魔祓いが公の場から姿を消し始め、「偽魔女」「偽魔術師」が登場し、軽信者から金を巻き上げる事件が多発した。そのため、徐々に魔女狩りが落ち着いていったのではないかと考えられる。そして、魔女運動は現代ではフェミニズムや自然保護・環境運動に結びつき、新たな魔女カルチャーの主役となっているという。

 

🟢批評

  この著作では、はじめに第1章でこの本全体における魔女をはじめに具体的に定義付けることで、魔女と呼ばれていた人たちを解像度高く想像させることに成功している。それによって、実際にはどういった人たちであったのか、どのように迫害されていたのかが容易に理解しやすくなっている。 

  また、第2章から第3章にかけて、実際の魔女裁判の告発から処刑までの過程を説明したあとに、過去にあった記録からどのように魔女だということが発覚し、そこから伝染病のように魔女が増えていき、破滅していく様子を描くことで、魔女狩りという歴史の深刻さをわかりやすく表現している。

  しかし、各章で度々登場する“悪魔 “というワードが、本書の内容理解を難しくしているように感じた。魔女という存在を漫画やゲームのようなファンタジーなイメージでなく、現実味のある存在として捉えられるように定義付けたのにも関わらず、悪魔という非現実的な言葉を用いたことで、読者によっては当時の状況が理解しづらくなっていると考える𓈒𓂂𓏸。したがって、悪魔というものが当時の人たちにとってどのようなイメージのものであったのか本書で具体的に説明され、全ての読者が同じような意味で悪魔について理解できるようにしてあると、より分かりやすかったのではないかと考えられる。

 

🟢おわりに

    魔女狩りという少し想像に難い歴史の出来事も、本書では実際にあった事件の内容を元に説明し、裁判がどのように行われたのか、当時の政治や世間の風潮を交えて解説されることによって、例えば魔女狩りがどのくらいの規模の人権迫害であったのかを想像させやすくしてくれている。ヨーロッパ史の重要な出来事の1つを理解するための入門書として、最適な1冊といえるのではないだろうか。

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