『中世の世界』
- seikeigakubueuropa
- 2025年12月17日
- 読了時間: 7分
更新日:3月27日
創元社,1963年
●本書評のタイトル
兼岩正夫『中世の世界』に関する文献概要と現代的視点からの検討
評者:明張依

●本書評の目次
はじめに
1. 文献内容の要約
2. 現代的視点による検討
2.1 ゲルマン人の社会・政治に関する表述
2.2 オストゴート王国と連続性論
2.3 フランク王国と中世文化の中心
2.4 イスラム文化とサラセン帝国
おわりに
はじめに
本書は、西ヨーロッパの中世盛期から後期にかけての社会構造と秩序について、封建制度、荘園経済、教会権力、都市の興隆といった核心的な要素に焦点を当て、その内在的な論理と歴史的意義を解き明かしています。
兼岩正夫(1928-2007)は、戦後日本を代表する西洋史学者で、京都大学の名誉教授でした。専門はドイツ中世史です。「京大西洋史学派」の代表的な研究者として、アナール学派の影響を受け、社会経済史と制度史の視点から中世ヨーロッパの構造と秩序を分析することに力を注ぎました。著書に『封建制社会(新書西洋史 3)』 (講談社現代新書、1973年)などがあります。
1. 文献内容の要約
●ヨーロッパ世界の誕生
ゲルマン民族の大移動から中世が始まったことを説明します。ローマ帝国との衝突と融合、フランク王国の興亡、そしてビザンツ帝国やアラブの東方帝国との関係とその影響について述べます。
●中世社会の完成
フランス、ドイツ、イギリスなど、ヨーロッパの主要な国々がどのようにでき上がったかを説明します。また、キリスト教社会が、教会の拡大、十字軍、修道院制度を通じて、どのように確立し強固になったかを分析します。
●中世の社会と経済
封建制度の仕組みと騎士文化について解説します。また、荘園経済、商業の復活、都市の発展が、中世の社会と経済の基盤をどのように作ったかを説明します。
●中世の文化と生活
スコラ学[1]からゴシック美術までの精神的な世界を紹介します。また、大学教育を含む、さまざまな身分の人々の日常生活の様子を描きます。中世末期の状況 英仏百年戦争、経済構造の変化、農民の反乱、教会の権力の衰えなどから、封建制度が崩れ、近世へと移って行く原因とその現れについて分析します。
2. 現代的視点による検討
2.1. ゲルマン人の社会と政治についての説明
●原文の观点(P12-P21)
ゲルマン社会を理解するための主な資料として、タキトゥスの『ゲルマニア』という本を引用していました。「キウィタス」(civitas) という集団が主要な政治の単位だったと考えられていました。民族の大移動の後、共和国的な気風は消え、王の権力が強くなったと説明されていました。
●現代の研究による修正点
この本は単なる歴史の記録ではなく、民族誌[2]です。タキトゥスには「質素で勇敢なゲルマン人」を描くことで、腐敗したローマ社会を批判するという目的がありました。考古学の発掘調査によれば、実際のゲルマン社会はタキトゥスが書いたよりもずっと複雑で、身分の差や不平等が存在していたことがわかっています。ですから、この本だけを唯一の正しい説明だと考えてはいけません。
ゲルマンの王の権力は、「共和国的」から「専制的」に単純に変わったわけではありません。ゲルマンの王の力は通常、とても脆いものでした。戦争に勝ち、略奪品を分配することで、従う者たちの忠誠心を保つ必要がありました。いわゆる「共和国的気風」(貴族たちによる会議や戦士たちの集会)は、中世初期を通じてさまざまな形で長く存在し続け、王の権力を制限しました。つまり、王権は絶対的なものではなく、他の勢力と話し合いながら行使される協調的なものだったのです。
2.2. 東ゴート王国と「連続論」について
●原文の观点(P21-P32)
東ゴート王国のテオドリック大王は、ゴート人とローマ人を分離する政策をとったため、「統一された国家の建設を妨げた」と考えられていました。そして、その王国が滅んだ主な原因は、宗教的対立であると説明されていました。
●現代の研究による修正点
現代の「国民国家」のような統一の基準で、中世初期の王国を判断するのは、時代錯誤[3]です。東ゴート王国の「分離政策」(例えば、ゴート人は兵士、ローマ人は納税)は、当時のゲルマン人统治者がローマ人を支配するための、ごく一般的で現実的な方法でした。この政策の目的は「民族統一」を妨げることではなく、支配を安定させることでした。
東ゴート王国の滅亡は、単に「宗教対立」だけで説明できるものではありません。その主要な原因は、東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝による再征服戦争です。これは何十年も続いた破壊的な戦争で、イタリアと東ゴート王国の力を大きく消耗させました。宗教の違い(ゴート人はアリウス派、ローマ人は正統派)は確かに重要な要素でしたが、より直接的な原因は、東ローマ帝国の軍事力と、王国内部の政治的分裂でした。
2.3. フランク王国と「中世文化の中心」について
●原文の观点(P34.P37)
ロワール川とマース川の間の北フランス地域が「中世文化の中心」であったと考えられていました。また、クローヴィスのキリスト教改宗やカール大帝の治世が、キリスト教的な色彩を強く帯びていたことを強調していました。
●現代の研究による修正点
カロリング朝の中心地域を「中世文化の中心」と呼ぶことは、フランク中心の視点に偏っています。 9~10世紀、ビザンツ帝国[4]の文化や学問の水準は、西ヨーロッパよりもはるかに高かったのです。同じ時代、アッバース朝のバグダードも、輝かしい世界の文化センターの一つでした。カロリング・ルネサンス[5]は、混乱から立ち直りつつあった西ヨーロッパにとって重要な発展でした。しかし、その規模や水準は、同時代のコンスタンティノープルやバグダードと比べることはできません。あくまで、当時の西ヨーロッパという「低いレベルからの回復と再生」だったのです。
2.4. イスラム文化と「サラセン帝国」について
●原文の观点(P26-P31)
イスラム文化は、ギリシャ、インド、ペルシャなどの既存の文化を吸収し、統合してできた「世界文化」であると正確に指摘していました。また、その世界的な性質が、政治的な統一を弱めてしまったと説明していました。
●現代の研究による修正点
「サラセン帝国」という呼び方は、古い、ヨーロッパ中心の視点に基づく用語です。現在では、「イスラム帝国」、またはより正確に「ウマイヤ朝」や「アッバース朝」のように具体的な王朝名で呼ぶことが一般的です。これは、歴史の主体を正しくとらえ、正確さを重視するためです。
政治的统一が弱まった主な原因を「文化の世界的性質」だけに求めるのでは不十分です。歴史的事実から見ると、アッバース朝の中期以降の分裂は、三つの現実的な矛盾が重なった結果でした:
1. 地方の分裂の深刻化:9世紀以降、エジプトのトゥールーン朝やスペインの後ウマイヤ朝などが中央の支配から離れ、「多くの勢力が並び立つ」状態になりました。
2. 軍事勢力による政治への介入:アッバース朝が導入したテュルク(トルコ)系の奴隷兵が次第に軍事的実権を握り、カリフ[6]の権力を空洞化させました。
3. 経済システムの崩壊:メソポタミア地域の農業灌漑システムが衰え、交易路の安全が失われたことで税収が激減し、中央政権は広大な帝国を統治するための財政力を失いました。
むしろ、文化的な世界主義は、学問や貿易のネットワークを通じて地域同士の結びつきを強めた面があり、分裂の原因というよりむしろつなぎとめる役割を果たしたと考えられています。
おわりに
本文は、日本史学者である兼岩正夫の著作について、その歴史の捉え方の特徴と、現代の学問による修正点を、さまざまな角度から分析しています。著者は、大きな「ヨーロッパ」というまとまりを想定し、その共通性を強調する叙述を行っています。また、古い民族観、硬直した歴史の区切り方、「西欧中心主義」に基づいた考え方を採用しており、分析の中には「エリート移行論」[7]、時代遅れの用語、原因を一つに決めつけるような時代による限界が見られます。
現代の研究は、中世ヨーロッパの多様性とばらばらな性質をより重視するようになっています。現在の学界では、民族集団の流動性[8]、歴史的変化の長さと地域による違いにもっと注目しています。そして、「中心をなくすこと」[9]、多くの要因を考慮して分析する方法を主張し、あらかじめ決まった結論に向かって進むような単純な説明方法を取って代わろうとしています。
[1] 経院哲学
[2] ある民族について書いた本
[3] その時代にはない考え方で測ること
[4] 東ローマ帝国
[5] カール大帝時代の文化復興
[6] 皇帝
[7] 精英转移论
[8] 移動やアイデンティティの変化
[9] 去中心化



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