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『アルメニアを知るための65章』

  • seikeigakubueuropa
  • 2024年11月22日
  • 読了時間: 10分

著者:中島偉晴、メラニア・バグダサリヤン

出版社:明石書店

出版日:2009年5月30日


文責:平原颯斗(商学部2年)


🟢興味のある地域・分野

 コーカサス地方というイラン、トルコ、ロシアの間に位置する東欧の知られざる内陸国、アルメニア。その国は世界で初めてキリスト教(アルメニア正教会)を国教に定めた国家でありキリスト教の聖書の物語の一つである「ノアの箱舟」の舞台ともなった。また、ヨーロッパとアジアの境目に位置していたことから、シルクロードが栄えていたころは東西の貿易路に位置する国の一つとして古くから栄えていた。一方で、オスマン帝国やロシア、モンゴル帝国といった列強に支配されアルメニア民族が迫害・虐殺された過去もある。今回の書評では、アルメニアで過去に起きたアルメニア大虐殺やアゼルバイジャンとのナゴルノ・カラバフをめぐる紛争といった国際問題に着目してアルメニアの歴史や国際問題を解決する方法を探求するために上記の本についての書評を書くことに決めた。


🟢はじめに

 アルメニアはギリシャ、イタリア、秋田県と同じ緯度にあたり、アルメニア高地には太陽光が十分に降り注いでいるためアルメニアからの手紙には必ず「陽光あふれるアルメニアより」と記される。また、アルメニアは、聖書の「ノアの箱舟」の舞台のアララト山を思い浮かべる人が多いが、実際その山はトルコに支配されている。いずれにしても、アルメニア人はアララト山を崇敬の念をもって眺めており、その山を見るのにはアルメニア側から見るほうがきれいに見ることができる。また、アルメニアは、黒海とカスピ海の陸狭の中東から北アフリカに位置する「肥沃な三日月」の北に位置するため古くから交易の十字路として栄えた一方、トルコやイラン、ロシアといった周辺勢力に支配され苦しめられながら歴史をもつ。その苦しみに耐えながら文学、工芸といった技術や文化の黄金期を迎えていった。

 このような歴史を有するアルメニアについて、日本国内ではオスマン帝国やソ連による長期的な支配の影響によるものか、あまり知られていない。しかし、近年にはトルコによる欧州連合加盟問題やアルメニアの国境封鎖問題により、過去に発生したアルメニア人への虐殺という戦争犯罪を認めず謝罪をしていない問題がクローズアップされてきている。本書では、アルメニアおよび隣接する地域で起きている問題についても提示している。

 なお、本書は複数の著書によって書かれており、例えば代表編集として名前が上がる中島偉晴は、国際政治経済、ソ連、コーカサス地方の研究が専門であり、2000年には和光大学でオープンカレッジ講座「アルメニアの民族・文化・歴史」で教鞭を取った。同様に、メラニア・バグダサリヤンは、1992年に来日し1995年から朝日カルチャーセンターでアルメニア語講師を務めている。


🟢目次

1.アルメニア石・水・陽光(アルメニアの地理やアルメニア語に関する情報)

2.歴史※

3.政治・経済※

4.アルメニア人ジェノサイド※

5.ディアスポラの起こりと世界のアルメニア人(アメリカや西欧等に移住したアルメニア人コミュニティについて)

6.生活・文化

7.日本とアルメニア


 今回の書評の概要では、政治経済を学ぶ本学部やヨーロッパ史をテーマとするゼミの趣旨にしたがって、歴史(古代からオスマントルコやモンゴル帝国・その後継勢力による支配)や政治経済のナゴルノ・カラバフ問題、アルメニア人ジェノサイドについて取り上げる。


🟢本書の一部概要

 2の「歴史」では、アルメニアは89の群小王国が統一したことから成立し、その当時から現在の首都であるエレバンが建設されていたことが書かれていた。しかし、アジアとヨーロッパの境目に位置していたことからササン朝ペルシャやアケメネス朝(現在のギリシャとマケドニア)、ローマ帝国といった勢力に支配された歴史についても詳しく書かれていた。また、アラブ勢力から独立したキリキアン・アルメニアの時代には、セルジューク族がアルメニア王国に侵入したことにともない、アルメニア人の富裕層は遠征していた十字軍を頼り、小麦や綿花の栽培が盛んにおこなわれているキリキア平野(現在のシリア)に移住した。その後、キリキアン・アルメニア王国が成立し、シスを首都に定めた。交易に力を入れ、中国やインドの香辛料・絹をイタリアに輸出していた。さらに、当時モンゴル帝国の支配下に置かれていたアルメニア本土にも良い影響を与えたことから、アルメニアの白銀時代と称された。当時のアルメニア本土はモンゴル帝国から文化活動を認められていたため、多くのアルメニア商人がシルクロードの交易都市に移住していた。その後は、モンゴルからの増税の要求が原因の反乱を起こしたことにより、両民族間に不信を募らせ、アルメニアの国王と兵士は遠征にも参加させられ、その間にアルメニア人の権利と土地がモンゴルに奪われることとなる。その後も、モンゴル帝国の後継国であるオスマントルコ帝国、ティムール王朝、ロシア帝国といった国々に支配され一時期アルメニア民族が虐殺される悲劇が起こる(アルメニア大虐殺)。

 3.「政治・経済」では、ナゴルノ・カラバフ問題に関して書かれている。ナゴルノ・カラバフ問題は、ソ連末期にゴルバチョフが行ったあることがこの問題の直接の起点となる。すなわち、アゼルバイジャン(シーア派のムスリム国家)の中でアルメニア人の人口が大多数を占め、アルメニア製のワイン、ウォッカの製造といったアルメニア文化が根強く残るナゴルノ・カラバフ自治州のアゼルバイジャン化が原因で、その自治州のアルメニアへの帰属運動が始まった。ナゴルノ・カラバフは、中世以降にペルシャ、トルコ、ロシアといった周辺国に支配された標高1000mに位置する地域である。この問題が発生したのは、1922年に当時の支配国ソ連がこの地域をアゼルバイジャンに帰属させることを決定したことだ。当時は自治州という形で支配していたが、同地ではアルメニアの歴史を教えることを禁じるなどの文化・経済活動への抑圧が行われた。その結果、自治州内でアルメニア人による抗議活動が行われ1988年2月20日にナゴルノ・カラバフ州・ソビエト臨時会議はソビエト民族自治権に基づきアルメニアへの再統合を決定した。しかし、独立後の1991年にアゼルバイジャン政府は約1500世帯の一般市民への無差別攻撃、逮捕を行うという暴挙を行った。それに対し、アルメニア人の勢力はアゼルバイジャン軍の拠点であるシュシー高原への攻撃を行い、撤退へと追い込んだ。その結果、3万人の死者と多数の難民をアゼルバイジャン、アルメニア両方で出す結果となった。現在はアゼルバイジャン政府とアルメニア政府の間で和平交渉が行われ、一部地域がアゼルバイジャンに返還されている。

 4.「アルメニア人ジェノサイド」については、19世紀にヨーロッパの列強とオスマン帝国の間の外交上の問題(東方問題)が激化しているときに、エルサレムのキリスト教徒の保護を口実にした英・仏・露の干渉によりイスラム教徒と土着のキリスト教徒の瓦礫が増したことから始まった。その結果、列強の侵略に反対している民族主義者は、列強やスルタン政府ではなく、キリスト教徒(アルメニア人、ギリシア人、アッシリア人)に報復をするようになった。

 1891年に、スルタン・ハミトは実質的にはアルメニア人の財産の没収・抹消を目的とした国境警備隊を結成しクルド人にアルメニア人集落を襲わせた。1894年~964年には、アルメニア人への虐殺を指令し、アルメニア問題への暴力的な解決を図った。その結果、1890年最初の虐殺がセヴァン湖南西の都市ビトリム行われ、1894年~964年に行われた様々な都市での虐殺で、30万人のアルメニア人が命を落とした。また、虐殺だけでなく、この時代にはアルメニア人への不当な増税や略奪・放火も行われていた。1894年8月に発生したクルド人によるアルメニア人集落タロリへの襲撃を機に、1か月にわたる防衛戦が行われたが、トルコ政府により鎮圧され、政府軍は子供を岩に投げつけて殺す、妊婦の腹部を無残に切り裂くといった蛮行を働いた。しかし、その戦いの一つである「サスーンの戦い」を機に、アルメニアに対するオスマン帝国の圧政・蛮行が世界に広まっていった。その後、20世紀に入ると1909年にはアダナでアルメニア人がトルコ人を殺害したというデマが流され、最終的にはアルメニア人居住地への襲撃につながった。1915年の第一次世界大戦戦時中には、アルメニア人の財産を没収する法律が制定された。その後も、アルメニア人コミュニティの指導者、作家、政治家ら235人を緊急逮捕する、アルメニア人市民に疎開をさせる名目で役所に呼び出して拘束し、拷問を行ったこともあった。また、アルメニア人を現在のシリアやイラクの収容所に移送し、到着後にアルメニア人はトルコ兵に射殺される(移送中にも砂漠の暑さで死亡するアルメニア人も存在した)事態も起こり、残酷なことが行われていた。その結果、アメリカに移住するアルメニア難民も現れた。ほかにも、世界大戦後の軍法会議ではキリスト教徒虐殺を目的とした殺人集団を組織していたことも判明している。


🟢批評

 この本は、アルメニアという国についての知識を幅広く理解したい人向けに書かれている内容が多く、特に歴史に関しては、ヨーロッパだけではなく周辺の中東の国々との関わりについても深い内容のものが多かった。特に、前189年にセレウコス朝がマグネシアの戦いで負けたことを機に、アルメニアで独立国家が成立したが、そのときにカルタゴ(現在の北アフリカからスペインを支配していたフェニキア人の国家)からの亡命者であるハンニバルに都市設計を任せ、宮廷に劇場を置いていたことは日本ではあまり知られていない事実だと思われる。また、地理的にアジアとヨーロッパの境目に位置してることを活かして、商業の中継地としてアルシャタトという黒海沿岸の都市が発展していたことから、大昔から商業や貿易で成功していたことを読み取ることができる。他にも、キリキアン・アルメニア(現在のシリアやレバノン地域)で離散したアルメニア人がモンゴル帝国と同盟を組み、アジアとヨーロッパとの貿易で成功した点については、中国や他のアジアから輸入していた香辛料・絹が、キリキアン・アルメニアを経由してイタリアへ輸出されていたことのような、当時の国際的な貿易ルートを理解することができる。14世紀にフランス系の国王が実権を握っていたこともとても興味深く分かりやすい内容ではあるが、この話題についてもほかの国々との関わりについてより多く書いてあったほうが良いと思う。

 また、アルメニアの地形を説明する際にも、分かりやすい話題を提供して読者の関心を誘うことに成功している。ノアの箱舟という聖書の話の舞台になったことや、オリエント文明が西アジアで栄えた要因の一つであるユーフラテス川の源流が流れていることの説明がまさにそれであり、日本の読者にとって身近な話を載せている点が一番分かりやすい点だと言える。

 一方で、豊富な話題を収める本書では、難しい内容も多い。確かに地図を使い説明している部分はあったが、特に古代から中世にかけてアルメニアを侵略した勢力について、現在位置している国が書いていなかったため、その情報を載せるべきだと思う。アルメニア大虐殺を取り上げている部分に関しては、アルメニアで起きた虐殺事件と被害、国際認識について詳しく書いているが、トルコ側の主張は見当たらない。トルコ側の主張も載せることによって中立的にこの問題を読者に伝えるべきである。


🟢おわりに

 この文献は、日本ではまだ知られていないアルメニアという国を知りたい人向けに書かれており、内容が濃く興味深い情報が多い。また、アルメニア大虐殺やナゴルノ・カラバフをめぐる周辺国との国際問題についても取り上げられており、これらの問題を国際レベルで解決する方法についても探求できる内容でもある。ほかにも、本書評では取り上げなかったが、アルメニアの料理や文化、日本との関わりについて書かれており、この書籍を読むことでアルメニアやコーカサス地方について興味を持つことができる一冊である。

 
 
 

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